だんだんと街の雰囲気や、どこに何が売っているかなど把握できてきた。
お気に入りの神社に、今日も行ってみた。
雨が降ったり、かと思えばすごい晴れてみたり、不思議なお天気だったけど…
今のおうちの周辺は昔江戸時代とかはたけのこの産地で、この家近辺は一帯畑だったらしい。
大家さんがお年寄りで、今時珍しく家に上がらせていただきいろいろ教えてくださる方で、教えてくれた。
やっぱり何年間かの運命(?!)かかっている大事なおうちですから、昔どんなところだったのかは気になるところなので良かった。
家は狭いが便利で平和な感じ。
そのうちぼちぼち仕事もしたいと(いえいえ必須!せねばと)思います。
はじまりました!東京生活。
引っ越してきて初めての雨降りです。
神戸での最後の日々は、思っていた以上にばたばたとしていたけれど、会いたい人に会い、行きたかったところへ行き、慌てるだけでなく過ごせた気はします。(写真は神戸ポートタワー)
神戸出発の日が大嵐で・・・そう、今月始めにまるで台風のような低気圧が来て大変だったあの日です。
涙雨という言い方も聞くけれど、あれはもう度を越していた!
多分うちの子が『なに~!?どこいくの~?!?ここはぼくのばしょなのに~!!!??』と大泣きしたかだだをこねたのかと夫婦で話しながらさりました;^^)(^^;
いつもは大阪まで30分の特急が、安全運転のため50分かけて到着。
私には、その速さがちょうど良かった。
引越し屋さんが来て物を全部出した後の部屋を磨きながら、ふと「この子が生きていた思い出のある部屋は、この先もここだけで、今そこを離れる。きっと、二度と来ることはない。」と思った時はしんみりきたけど。
本当にいろいろあってつらかったけど、やっぱり神戸はつらいからといって嫌いになってはいけない場所だ。
大切な場所として、これからもせつない思いを抱えながらも思っていかなくちゃと思う。
そう、それだけじゃなくて、振り返ればやさしい人たちとの出会いや楽しいことも、あったのだし。
自分が弱っている時に歩み寄ってきてくれた人たちは、元気な自分の時に集まってくる人たちと全く違っていたけれど・・・勇気があってやさしい人たちだった。
だったじゃないか。今もか。
東京に来て思うのは、なんかやっと時間が動き出した気がしているなということ。
2月のあの日以降、一所懸命にその時その時で、自分ではちゃんとやっていたつもりだった。でも実際はどうも抜けていて…ということばかりだった。
もちろん急にてきぱき動けているわけはないのだが、時間を感じペースを自覚しながらいる。
姉一家が近くに住んでいたり、いざとなれば岩手にも帰りやすく、友達も関東以北は多かったり、関西弁コンプレックスを感じなくてすむことなんかも影響しているかな。
少しずつ、七泣八笑で!
いや、今はもうもっと笑っているかな(^^)(;;)(*^^*)
関東の皆様、これからの日々お近づきのほどよろしくお願いします~!
昨日、神戸での通院最後の日となった。
胎盤の病理検査は、結局特に異常は見当たらず、何が原因で流産となってしまったかははっきりとわからなかった。
それは、ヴェールに包まれてズキッと来ない反面で、また同じことを繰り返すかもしれないリスクも意味していた。
こんなせつなくつらい思いはもうしたくないのになぁ。
反復しやすかったり、不育症だったりということも考えられるが、今回わかったことを生かして予防をするというのが難しいのが何ともくやしい。
でも、世の中には何度もそういう経験をしている人も多くいるようで、それでもがんばっている人も多い。
ただ、最後の日だけあって、先生には今まで思っていたことや聞きたかったことをお話させてもらった。
クールに見える先生が、最後に感情を表に出した。最後にどうしても聞きたかった、わりとシンプルな、でも大事な質問をした時だ。
先生にはつらい思いをさせてしまって、私もつらく申し訳ない気持ちにもなった。
でも、実は本当に、大病院でこの命に対してどのように思っているのかがどうしても伝わってきにくかったので、ちゃんと諦めない視点で見てくれていたんだなというのがわかって、私は少し救われた。
陣痛が始まってからその結果に至るまで、子どもの心音を聞いたりエコーで見たりしなかったことも、その時点で既に諦められていたような気がしてしまっていた。
もしそれを聞いたり見たりしていたら、今私はその様子や音が残ってつらい思いがもっと増幅していたに違いない。普通の心拍の音でさえ、今はちょっと聞くのがつらい。昔は心音は、生きている証拠な気がして大好きだったのに。
だから、感情を考慮してもらって聞くことや見ることがなかったということは、確かにそうだなと思った。
医療に関してはやはり、あの時どうしてというものはなかなか消えないものだが、ただそこに、助けたかったという気持ちやそれが私に伝わっていなかったというのをつらいと思う気持ちがあったことが本当に私のこれからの救いになった。
一方でもちろん、生まれてきた小さなその子にかわいい洋服を着せてくれて、それに見合った小さな布張りの箱を準備してくれ、さらに小さな足型、手形と、桐の箱に入ったへその緒を大事に準備してくれて、私と夫とその子の時間を尊重してくれた。命と貴重な時間として扱ってくれた対応には本当に感謝している。
その服とその箱と一緒に火葬で、それを準備してくださった方々の気持ちと共にかずやはいたのだと思っている。
たくさんの病院がある中で、それらのような対応をしてくださるところばかりでは絶対にないから、感謝している。
もう少し落ち着いたら、またその感謝の気持ちを伝えられたらいいな。
いろんな思いが混在しすぎていた。
ただ言えるのは、すべては最後は、こころだということ。
感じるかどうかが最初。そして、伝わるか、伝えるか、伝わるように表せるか。
それは立場や技術を超えた、ちからといのちを支える。
注意:~この記事は胸が痛くなる文章ですので、心に溜めすぎる方は見ないことをおすすめします~
流産に至るまでをまとめるが、最初に言っておくことがある。
私の子宮は双角子宮という、子宮の形が切り込みが入っているようなハート形をしている(2つあるような感じ)なので、妊娠しにくかったり流産しやすかったりする。
だから、もしかしたら子どもはできないかもと思っていたので、妊娠は余計にうれしかったのかも。
そのこともあり、病院は総合病院で何かあった時にすぐ対処でき、多くの医師の目によって多角的に見てもらえるところを選んでいるはずだった。
また、あかちゃんの名前はかずや。後々名前が出てくるので記しておく。
では、経緯。
1月31日夜、おなかのはりと少量の出血→診察、入院。
入院は生まれて初めての健康体。
でも婦人科系は弱いことは自覚していたので、妊娠してからは今までのわんぱくさを一気に無くしおとなしくしていた。
モンゴル時代もこれだけは、月に一度の大量出血と生理痛に苦しんでいたからなぁ。
おなかの中の赤ちゃんは元気。いつもながら手足をよく動かしている。
トイレや診察は車いすで看護師に入口まで連れて行ってもらい、あとはベッドで安静。
おなかの張りを抑えるウテロン点滴を始める。
なお、この時の夜勤担当は後期研修医。
後で知ったことだが、大学病院でなくとも、大きい病院は研修医が混ざっていることが多い。
2月1日、外来の定期検診でいつも私を診ている医師と会う。診察して切迫なのかとこちらから聞くとそうだと答えるが、切迫流産にも程度があるので(軽い)という言い回しをされる。
診察後は車いすなしでOKの許可は出たが、トイレ以外はベッドでおとなしくしている。
この先生も、後で知ったことだが後期研修医。
2月2日、出血も無いのでシャワーの許可あり。
頭痛あり。たまにおなかがはる。
つわりが復活。おう吐あり。
2月3日、朝いちで診察。あかちゃんも元気で異常なし。
朝から外を工事の業者が通るということでカーテンを閉め、結局一日中閉まりっぱなしで外を見られず、ストレス。
診察の少し後にまた出血があったので、シャワーは無し。
夜、いつものようにあかちゃんの元気な心臓の音を確認。
ママは、動けなくてもつわりがつらくても、あなたが元気なら良かったのに。
はりがあったので機械で測定する。
なんとなく、いつもと違う痛み(生理痛のような鈍痛)があり、看護師に伝え消灯。
そして、2月3日深夜(2月4日未明)、トイレに起きつつ、なんだかおかしい。
違和感があり、トイレの扉を開け廊下に出たところで激痛が走り、動けなくなる。
診察台に移るのもやっとの激痛。
診察すると、
『子宮の入り口に、赤ちゃんを包んでいる袋が見えています』と、今晩夜勤担当の研修医。31日に入院した医師と同じ医師だった。
でも、私にはまだこの時、激痛のさなかにありつつも緊迫感が伝わっていなかった。
ここは病院。入院して24時間医師や看護師の目があるこの状況で、むしろ家より安心なはず。
何らかの予兆があればわかるはずだし、容体が変われば助けてもらえるベストな環境と、思っていた。
処置は、入院してからいつもしているおなかのはりどめウテロン点滴の量を増やしたぐらいだった。
あとは痛みに耐えていただけ。
医師はほとんど入ってこない。
袋が見えているぐらいなら、戻せないの?なんで他に何も処置がないの?この痛みでなぜ医者は来ないの?
様々な思いが駆け巡った。
2~3時間経ったところで、痛みと痛みの途中で看護師にやっと聞いた。
『もしこの痛みがずっと続いたら…出て来ちゃうこともあるんですか』
その通りとのことだった。
なんで?何も手立てはないの?
うすうすそうではないかと思っていたが、やっぱり陣痛だったんだ、と、そこで初めて事の重大さを自覚した。
気が遠くなるような痛みの中で、『まだだよぉ』『出て来ちゃだめだよ』『戻って…』『嫌だよ…』
『お願い…!!!』『奇跡が、起こって』
ずっと繰り返していた言葉たちは、届いていたのだろうか。ママの声は、聞こえてた?
出ようとしているというよりは、おそらくママの体の方がかずやを出そうとしていたんだろうね。
前期流産は子ども側の要因、後期流産は母体側の要因が大きいと言われる。
ママの気持ちとは全く逆に、ママの体はどんどんきゅうってかずやの体を包んで、きっとそれでママの体の中で、かずやは息をひきとった。その心臓の鼓動が、止まったんだね。この体の中で。その力で。
長時間に及ぶ陣痛で私の体はかなり疲労し、このままだと私がもっと弱っていくだけで、がんばってももう無理だというような内容を告げられ、張り止めの薬を切ったのは5時間後。
私は、薬を切ったら痛みから解放されるものだと思っていたが、違っていた。
つまり張り止めの薬によって何とかとどまっていたのが、いよいよ出産の経緯と同じく赤ちゃんを体から出す方へ変わっていくということで、これからが陣痛の本番だった。
薬を止める瞬間は、その命を諦める瞬間みたいでつらかった。
その後、また2時間以上痛みに耐え、私は産んだ。
決して産声を聞くことのない悲しい悲しい出産。
これが、元気な産声を上げるであろう希望にあふれた出産であれば…この痛みの先に待っているのは、命がなくなるということ。私のおなかから、小さい小さいあなたがいなくなるということ。
最後、あなたが私の体をかけぬけて、外に出て行った瞬間の切なく痛い感覚や重みを、今もママは覚えているよ。
どの時点で心臓が止まったのかは、医師や看護師に聞いてもわからないとのことだった。
時刻は既に朝。
そして、対面。
かずやは、穏やかな、顔をしていた。
結局破水もせず、袋ごと生まれたので、変にいきみもせずお母さんが上手に産んでくれたから、すごく穏やかな顔をしているよと看護師さんが言った。
穏やかだけど、苦しかっただろうな。ごめんね…。
小さな小さな体を抱いて、触れてみた。まだ体温が残っていた。
『おっぱい、あげますか』看護師さんが言う。
胎盤が出たら、母乳が出るように体のしくみがなっているらしく、看護師さんが温めて絞ると、母乳があふれ出てきた。
夫と、母乳を指ですくって、その子のくちびるにつけてあげた。
看護師さんも涙をぽろぽろこぼしながら、御一緒してもいいですか、と、一緒にやってくれた。
「もちろんです。この子が生きたことを知る、数少ない人ですから」
この子がおなかにいるのをエコーで見た、心音を聞いた医師、看護師、と私と夫が、生きている間のかずやの存在を知っている数少ないひとたち。
ましてや生まれてからのこの子に会ったのは、ほんの数人。
その子に一緒に母乳をあげて触れてくれると言う。
一緒に泣いてくれる。 うれしかった。
ちゃんと、おっぱいもかずやにたくさん出てきた。
母の体にも心にも、なる準備ができていたのに。
パパだって、楽しみにして、やっぱり準備をしていたんだよ。
戸籍上は生きていなくても、5か月、確かに動いて生きていたから。
この子の存在があったことで、私たちは父であり母になった。
病室には看護師の方々が来ては、ねぎらいの言葉をかけてくれた。
優しさにあふれた言葉たちや行動は、癒されもしより涙をあふれさせた。
案外、直接的に私の近くにいなかった方の方が心を開けた。
直接側にいた方々(医師・看護師)に対しては、どうしても、なぜ防げなかったのかという気持ちが入ってしまうが、それでもともかく泣きたいとき泣けるだけ泣いた。
・・・この日は夫も病院に止まってくれて、親子3人で寝た(眠れなかったけど)。
川の字の真ん中の一本は、小さすぎた。
そして次の日の2月5日、退院。
帰りに病院の側の小川のある公園に寄り、夫と3人でお散歩をする。
初めて外の空気や光に触れて、空があって…でも最初で最後のお散歩だね。
笑顔だけれど、何ともせつない時間だった。
今年初めての梅が咲いていた。
春との境目の節分から、春が始まる立春にうまれた子。
家に帰る。声をかけながら、過ごす3人の時間。
童謡をかけ、絵本を読み、帽子とくつしたをちくちく縫ってあげた。
してあげたいことをして、せつなくも穏やかな時間だった。
2月6日、火葬。15時。
小さなかわいい棺に、いっぱいのお花。
そしてパパとママの思いがいっぱい詰まった涙と一緒に。
小さな小さなお骨が残った。
胎児はあまりに小さすぎるので骨すら残らないことも多いという。
牛乳好きのパパとママの子だから、しっかりした体つきしてたもんね。
でも、、小さいね。
…これが、あの1週間で起こった時間。
その後も、時が過ぎれば○日前は・・・1週間前はまだ生きていたのに・・・などなど思えば限り無いせつなさに包まれた時間が続くのですが。
また、書きます。
え?もうこんなせつないのは見たくないって?
つらい方は、このカテゴリをとばしてください。
書かせて下さい。
泣くだけ、泣かせて下さい。
でも、泣いてばかりもいないですよ。
これからが、あるのですから。
さて。重い話。
流産のことは、ブログで詳しく言うことではないのかも?
私のことを知っている人ほど、気持ちが伝わり過ぎたりどう接したらいいかわからなくなったりすると困るかな?と迷いましたが。
やはり書くことにします。
なので、あんまり重い話がつらい人は、この『いのち*流産』のカテゴリは見ない方がよいかと思います。
それでもご覧になる方は、予めご了承ください!
実は、流産というのは妊娠2~3ヶ月くらいまでの初期流産が最も多く、私のように5カ月目に入ってからの中期流産は少ないのです。
流産してすぐ、インターネットでいろいろと調べまくった時にも、なかなか情報が初期の流産より少なく。
同じような体験をされた方がいないかと、探した時もなかなか見つからなかったのです。
最近になって『胎胞脱出』という言葉を知ってからはやっと似た経験と出会うことができましたが・・・そこで、たくさんの経験に涙し、今に至ります。
もし私と同じような中期流産の方が、これを御覧になって、その方の痛みと少しでも寄り添えたらと、書くことにしました。
もちろん、私自身のためでもあります。
この1ヶ月と10日、随分と今は落ち着いて来ましたし、人と会ったり出かけたりもしています。
でも、やっぱりもろさは自覚しています。
少しずつ少しずつ。